熊澤酒造150周年記念特集 -これまでの歩み-
熊澤酒造は今年、創業150周年を迎えました。記念すべきこの年に熊澤通信5号を発刊するにあたり、私たちが辿ってきた150年という道のりと、未来に繋いでいくためのこれからを少しだけここでお話ししようと思います。
熊澤酒造のシンボルツリー、中庭の大木メタセコイア。この通信でも何度か登場しているこの木は、太い枝が折れても傷口を数年で塞いでしまう修復力を持つほど生命力が強く、ある程度生長してからはゆっくりと大きくなり、樹齢200年〜300年で50メートルもの高さに及ぶものもあります。
私たちも、この木のようにできるだけゆっくりと実のある成長を重ねていきたいと考えています。そしてちょっとやそっとでは倒れない生命力を身につけるため、地下深くにしっかりと根をはっていきたいと思います。
熊澤酒造を一本の木に例えるなら、その幹となる酒造りの始まりは明治5年(1872年)。熊澤家がこの地に足を踏み入れてから300年の月日が経った頃です。その頃のここ香川には、50軒ほどの農家と豊かな水田が広がっていました。熊澤家は地域の中心に位置する豪農で、当時の当主が所有する水田で獲れた米と地下水と蔵に浮遊する酵母を使って酒造りを始めました。その時作ったお酒の銘柄は「放光(ほうこう)」と名付けられました。順調に見えた酒造りですが、実質的な創業者であった2代目が40代で亡くなると暗転します。3代目茂吉が弱冠20歳で後を継いだ後、関東大震災が起き建物の大半が倒壊しお酒全量が流出してしまったのです。1度目の大きな危機でした。その後の復興に尽力した3代目はその心労からか早世し、4代目茂吉(現蔵元の祖父)が1930年にやはり20歳そこそこで後を継ぎました。その際に浜辺から見た美しい日の出に感動し「放光」を「曙光(しょこう)」と変更し蔵の代表銘柄酒となります。
さて、当時の日本酒は1924年に初めて量産用の一升瓶が開発され徐々に普及して行き、私たちのような小規模な蔵でも徐々に瓶入りに切り替わって行きました。一方で、一般の人々に持参の徳利や貸し徳利にお酒を量り売りする習慣は1930年頃(昭和初期)まで続きました。その後第2次大戦を迎え、国の政策による酒造会社の統廃合や、敗戦後のアメリカによる農地解放指令で熊澤家も多くの農地を失いました。酒蔵にとって2度目の危機でしたが、これを何とか切り抜け軌道に乗せます。
1960年台の高度経済成長期になると、水田地帯が広がるこのあたりも急激に田んぼが減っていきました。開発による汚水が田んぼに流れこみ、私たちも地域産米での酒作りを諦めざるを得なくなり所有する多くを手放しました。そして原料は全国の産地から調達し、醸造に特化することで量産が可能となりましたが、同時に「湘南ほまれ」という売れ筋の安価なお酒を量産する地域の酒屋さんの下請けのような状態となっていったのです。一方で、品評会に出すための高級酒を時間と手間を掛けて造り、賞を取ることでブランドを維持していました。安価な酒と高級酒に二極化して、地元の人が日常的に楽しめるお酒を造れていなかったのです。折しもお酒の自由化により今まであった規制が緩むと、少量で上質な地方の蔵が生み出す酒が脚光を浴びるようになりました。独自の酒造りをしていなかった私たちの蔵は業績が悪化し廃業寸前の3度目の危機を迎えます。そんな中24歳で6代目茂吉(現蔵元)が後を継ぐと、翌年の1995年に今までの酒造りをやめ、地域の人に愛され誇りとなる食中酒を造ろうと決心します。杜氏も地元の若者を起用し育て、5年をかけて「天青」が生まれます。
またその間を生き残るため、酒造りが落ち着く夏の間のビール醸造にも取り組みました。冬場は酒造り、夏場は米作りというかつてあったライフサイクルを、夏場はビール造りに変え両輪で本業を立て直そうと考えたのです。
理想の味と職人を求めて何度もドイツに渡り、1996年「湘南ビール」が誕生しました。地ビールブームに乗った形でスタートしたビール造りでしたが、今ではオリジナリティ溢れるクラフトビールへと昇華し、今もなおチャレンジングなビール造りに励んでいるところです。
こうして酒蔵の根幹である酒造りやビール醸造により存続の危機を脱し、幹が太くなるとともに、徐々に枝葉も広げて行きました。社訓「よっぱらいは日本を豊かにする」を掲げ、酒蔵を単なる食品メーカーではなく人が集い食文化が生まれる場所となるよう舵を切ったのです。それには小さい頃蔵元が祖母から聞いた話が大きく影響しています。それは、昔(昭和初期)は農作業を終えた人々が、貧乏徳利と呼ばれる貸し徳利片手にやってきて、簡単なアテと一緒にお酒を出すうちいつの間にやら毎晩のように宴会に。シメには裏の茶畑で取れたお茶をお出しして、はいお開きに。年に数回はお相撲さんを呼んだり祭りをしたり、とにかくここはみんなが集まる場所だった、というものです。そう、スーパーもコンビニもなかった時代、酒蔵は地域の人々の生活には欠かせない場所であり、文化を生み出す力がある場所だったのです。事実、神奈川県でも明治25年には250軒を越える酒蔵があったことがわかっています。地域に一つ、人々が集う酒蔵が存在すると言ったところでしょうか。
1996年、かつてのそんな姿を取り戻すため、蔵元は酒蔵の門を開きました。豊かな枝葉を持つ大木は一遍にその姿になるものではありません。一本また一本としっかりとした枝葉を増やしていくのです。工場の壁を取り壊し、地面のコンクリートを剥がしました。石畳みを敷き詰め、殺風景だった敷地の中心にメタセコイアを植えました。そして蔵を改装して、出来上がった湘南ビールを直売できるレストランをオープンすることから始めました。少しずつ蔵に人が集うようになると、ビールや酒粕などの原料で、お酒を飲まない人にも需要のあるベーカリーをオープンしました。かつてビール立ち上げの際に訪れたドイツの民宿で、主のお婆さんがビールもパンも発酵食品だから同じようなものよ、と手作りのそれらを出してくれた強烈な記憶があったのです。その後、心血を注いだ「天青」が完成すると、元の仕込み蔵を改装してレストラン天青をオープンし、かつて酒造りの道具を作っていた桶場はモノ作りの発信地としてのオケバギャラリーに姿を変えています。150年の歴史の中で忘れられた遺跡を掘り起こし、そこに新たな魂を注いで現代に蘇らせる、そんな作業は今も続いています。25年の年月を経て緑溢れる敷地に育ったように、熊澤酒造の枝葉もゆっくりと一本一本、大きくしていきたいと思っています。
ここ数年の集うことが困難な時代を経て蔵を訪れてくださるお客様を見るにつけ「昔も良いけど、今の蔵もなかなかグッドでしょ?」と英語が得意だった天国のおばあちゃんにきいてみたくなるのです。
さて、ここまで大きく育った酒造の木。けれど一番大切なのは頑丈な根っこです。地面の下の根っこは目には見えないけれど、幹や枝葉に栄養を送り大きく育てます。冒頭お話しした通り、ここ香川は太古の昔から豊かな水田とともに生活を営んできた地域でした。弥生時代には稲作が始まり関東最大級と言われる集落が誕生しています。時代を経ても田園風景は脈々と続き、今から50〜60年前まで人々は自然を生かした営みを繰り返していました。私たちもかつては育てた米でお酒を仕込む事が自然の流れでした。当たり前だったその循環を取り戻したい!そんな思いで酒米プロジェクトは始まりました。そして50年後の未来にも水田地帯が残り、収穫した米で美味しいお酒を造り、人々が集う文化の発祥地でありますように。わずかに残るかつてあった原風景を引き継ぎ、それを後世に残して行く。繋げてきたバトンを途絶えさせずに未来に繋げ、200周年に向けて進んでいく熊澤酒造の挑戦は続いていきます。
蔵の奥にある粕小屋付近の整備をしていた2022年8月のこと。その裏山の土の中からゴロゴロと発掘された泥まみれのモノたち。まさかの金銀財宝ザックザクか?よぅく洗って見てみるとなんとおばあちゃんが言っていた貧乏徳利ではありませんか!しかも熊澤の屋号と名前と通し番号付きです。このタイミングで発見されるとは天国のおばあちゃんの仕業に違いないと、蔵元が聞いた昔話がグッとリアルに感じられたお宝発見となりました。